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2008年3月

2008年3月30日 (日)

ワクワクのフランス租界

今月初めから出張で上海に滞在している。数年前に住んでいた所であり少し懐かしい思いがするが、急速に進む都市開発で古い建物が消えていくのが忍びない。経済成長著しい上海に対する所詮よそ者の感傷かもしれない。しかし瓦礫となって消えゆく物の中には案外歴史的価値のありそうなものが含まれていて、人知れず失われていくのを目の当たりにするとやる瀬ない気持ちになる。というのも以前上海に住んでいた頃、路上観察をしながら結構いろいろなものを見つけたが、今同じ場所を訪れると高層マンションになっていたりするのだ。

例えばこの界石は恰和洋行の土地の境界を示すものである。

              

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恰和洋行とはジャーディン・マセソン商会(Jardine,Matheson Co., Ltd.)である。かつてはアヘン貿易で財をなし今や大コンツェルンである。上海の外灘(バンド)に立ち並ぶ建築物の中にも恰和洋行のビルはあるが、それ以外にも上海のあちこちに不動産を持っていた。この界石もそれを示すものである。なお、この界石のあった場所の建物はすでに取り壊されており界石も今年消えた。

上海の路上観察と言えば、藤原恵洋著「上海―疾走する近代都市」講談社現代新書にある工部局のマンホール蓋、共同租界とフランス租界の電柱などの記述が興味深く好奇心を大いに刺激するものであり、特に工部局前のパンダ型マンホール蓋は路上観察の定番になっている。しかしそれ以降、少なくなりつつとはいえ租界時代の雰囲気がまだ残る上海において藤原本に続く新たな発見事例や問題提起がなされていないのは意外である。

そんな中、発見物を誰にも知らせず消滅させるのも気が咎め、また何かの参考になれば幸いであり、玉石混合である(石ころばかりかもしれない)が私の発見した租界時代の遺物を紹介してみたい。

まずは工部局のマンホール蓋の向こうを張って公董局のマンホールから始めるとしよう。その前にご存じない方のために簡単に説明すると、工部局というと役所の土木局のような組織を連想されるかもしれないが実際はそうではない。上海にあった共同租界(イギリス、アメリカ両租界の合併から発展した多国共同の租界)の多国連合の行政機構そのものである。当初中国が外国人居留地内のインフラ整備の権限を居留外国人の自治組織に与えたことから租界の形成が始まるのだが、当時中国は考えが甘く土木を担当する組織程度にしか見ておらず「工部局」と呼んだことに由来する。一方フランス租界の行政機構は公董局である。工部局は英文ではShanghai Municipal Councilと表記され、略称はSMCである。それに対して公董局のフランス語名称は長ったらしい。

Conseil d’Administration Municipale de la Concession Française de Changhai

略称はCMFである。

はっきり説明した文献が見当たらないのでどのアルファベットの頭文字か定かではないが、さらに短くしたConseil Municipal de Française の略号ではないかと思う。たとえば租界時代のフランス語表記の自転車の鑑札にもCMFと入っている。

                  

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これはフランス租界にあるマンホールである。淮海中路1788前の歩道にある。

                  

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蓋ではなく枠に注目していただきたい。CMFのほかに敷設を示すと思われる年代(1939)が鋳刻されている。コンクリートのマンホール蓋は中華人民共和国になってからのものである。この蓋のおかげで地下には雨水の排水管が敷設されていること、租界時代のインフラが現在も使用されていることがわかる。

ちなみに雨水排水のマンホールは新中国になってから次のようなものになっている。

                            

Mhcj1967 

CMFのマンホール枠は結構たくさん見つかるので、探しはじめは面白いのだが次第に飽きてくる。そんな中で奇妙なのは「新天地」近くにある2つのマンホール枠である。新天地というのは租界時代の旧フランス租界の集合住宅地を取り壊さずに現代風に改装し区画ごと商業地にリニューアルした上海のお洒落なスポットである。

             

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スターバックスのすぐ近く馬当路と太倉路の交差点に2つのマンホールがある。

                          

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交差点中央の枠(上の写真:左の枠)は1937年であるが隣の枠(右の枠)は1941年となっている。数メートル離れて年代が違っている。地下の排水管はつながっているのかどうか分からないが、枠の表示をそのまま敷設年と解釈すれば工事時期が異なるということだ。

                    

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↑1941年の枠

                                    

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↑1937年の枠

↓上の写真は雨に濡れて見にくいので晴れた日に撮ったもの(かなり以前に撮影)

             

Mhchf1937f

                    

そして探し続けるうちに別な場所で新たな珍種が見つかった。

マンホール枠、蓋共にCMFの純正品であるが枠は1939年、蓋は1935年と一致していない。枠より蓋のほうが古い。古い枠に新しい蓋であれば後から蓋だけ交換したと考えれば筋が通るが、枠より蓋が古いとはどう説明したものか。

                     

Mhcmf193539

                            

このようなつまらないことではあるが何かしら事情があるに違いない。まるでマンホールから謎解きの挑戦を受け、ひとつひとつヒントを与えられているゲームのようだ。

などと思っていると先週意外な場所でこのCMFマンホール枠を見つけた。常識では考えられない発見である。そこはフランス租界の外側もいいところ、なんと共同租界の中である。

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2008年3月22日 (土)

水の都の装飾タイル

コレクションを紹介しても単調なので、装飾タイルがどのように使われていたか見てみよう。骨董屋で手に入るタイルのうち、裏面にコンクリートなど付着していない状態のいいものは鏡台やキャビネットの装飾として扉や引き出しに嵌め込まれていたようである。一例を示そう。これは寧波の古民具を扱う店の商品で許可を得て写真を撮らせてもらった古い家具である。

Tilec_8

サイドボードは修復されているが、タイルは元から嵌め込んであったものだという。大きな花柄や果物籠のタイルは別なところでも見かけたことがあり、おそらく同じく日本製のものであろう。しかし左右両端の扉に1枚ずつある緑のタイルはイギリス製である。

Tilec2_2

次に建造物についてはどうだろうか。骨董屋の店頭に並ぶくらいだから必ずどこかにタイルで装飾された建物があるに違いないのだが、なかなかお目にかかれない。そもそも装飾にタイルが使われている建物は大抵文化財クラスのもので、区画整備で取り壊されることもないだろうから解体現場でたまたま見かけるということは期待できない。かといってどこかの一般公開された洋館で入場料金を払って見るというのでは、いまひとつ面白さに欠け満足できない。

半ば諦めていた頃に発見のチャンスは訪れた。ある日蘇州の街中をタクシーで移動していた時、流れる外の景色の中にその建物はあった。その時は仕事の途中であったのでそのまま過ぎ去るしかなく、通りの名前を書きとめて、あらためて日を変えてその所在地を訪れた。再訪するまでの間、早く見たいという期待感と決して盗まれるものではないのだが突如として消えてしまうのではないかという心配で冷静ではいられなかった。

そして実地に赴いて確認した物件がこれである。

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Tilesz02_5

建築物としては大したものではない。しかしマジョリカタイルの使用された建築が蘇州で見つかったことに大満足である。蘇州と言えば中国式庭園が幾つも残り、張り巡らされた運河沿いには黒い瓦に白壁の落ち着いた色調の民家が建ち並ぶイメージがあるが、そんななかで一際異彩を放っており、意外性において西洋化された上海で見つけるのとは訳が違う。

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壁面のタイルは淡陶製ではないだろうか。このデザインの淡陶製のタイルを持っている。淡陶といえば淡路島の珉平焼きの技術を継承したタイルメーカーで、マジョリカタイル生産当時の大手で市場の大部分を占めていたので骨董屋でもタイルがよく見つかる。日本では複数のメーカーで同じ柄のタイルを作っていたことがあり、推定が間違っていても不二見タイルとか佐治タイルといった日本のタイルメーカーであろう。もしもイギリス製タイルであるとしたら更に珍しいものである。

和製マジョリカタイルで装飾した建築が蘇州にあることを知る人は少ないだろう。重要建築物でもなければ観光スポットの近くにある訳でもない。たしかこの建物には文化財に指定されたことを示すプレートが掲げられていなかったので、将来取り壊される可能性は大いにある。これに文化的価値を見いだせなければ悲しい限りである。

この建物の発見に酔しれた後、引き続き周辺を散策してみるとさらに面白いことがわかった。なんとこの通りはアールデコ看板建築群であったのだ。このタイル建築はその一部分だった。看板建築群についてはあらためて紹介したい。

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2008年3月19日 (水)

唐獅子牡丹

「獅子身中の虫」という言葉がある。獅子の皮膚から体内に入り、ついには死に至らしめる虫のことであるが、仏教徒なのに仏法に害を与える者の意味がある。また牡丹の朝露は獅子に寄生する虫を退治する効能があるため、獅子は牡丹の下で眠りに就くという。つまり唐獅子に牡丹といえば、獅子の弱点を花の王である牡丹が補うという大変取り合わせがよいものとされる。

このマジョリカタイルはそれまでイギリスの模倣だったデザインから脱却し、日本オリジナルの意匠を手掛けたものといえる。淡陶会社製のタイルである。

Tilej04_2

獅子のデザインは他にもあるが、これは「石橋もの」である。寂昭というお坊さんが清涼山を訪れ深谷に架かる幅一尺しかない石橋にさしかかった時、童子が現れこの橋を渡ることは無理であることを告げ去り、しばらくすると文殊菩薩の使いである獅子が現れ牡丹の咲くなかで舞い戯れるという逸話があり、そこから歌舞伎の鏡獅子などの舞踊になっている。

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2008年3月16日 (日)

租界を飾ったマジョリカタイル

マジョリカタイルと呼ばれる装飾タイルがある。イギリスのタイルメーカーが彩色タイルを発売するにあたって、もともとマジョリカ島に起源を発する多彩色陶器に因んでマジョリカタイルと名付けたものが定着したものらしい。

日本でも大正から昭和にかけてイギリスのマジョリカタイルを模倣したアールヌーボー、アールデコの装飾タイルが生産されていた。当初は模倣であったが、徐々に技術の研鑽を重ね、やがてかなりの品質水準の装飾タイルが生産されるようになった。絵付けは1枚ずつ手作業で行われたため、高価で贅沢なタイルであり、洋館や銭湯などの内装に使用されたようである。戦前には10数社のタイルメーカーがあり、イギリス製に比べて安価であったため需要が増え、市場は国内にとどまらず中国、東南アジアに輸出されるほど活況を呈していた。しかし太平洋戦争が勃発すると経済が統制され、とくに豪奢な物品は著しく規制を受けたためメーカーはマジョリカタイルの生産を打ち切り、残念なことに国産マジョリカタイルの歴史も幕を閉じてしまった。

近年中国では都市の再開発が進み、上海では文化財的価値がありそうな古い家屋も惜しげもなく取り壊されているため、電灯、ドアノブ、ガラスなどのサルベージ品がよく骨董屋にでる。装飾タイルも然りである。

ヨーロッパ風のデザインのタイルの裏面をみると、その多くは兵庫県淡路島の淡陶会社や名古屋の不二見タイルなどで、かえってイギリス製の方が見つけにくい。貿易の統計などで戦前まで大量の日本製の装飾タイルが中国に輸出されていたことは分かっている。かつて租界のあった地域では居留外国人を中心に人口が増加するにともない建設需要が増大し地理的に近い日本から建築関連資材の輸入量も大きかったに違いない。

                  

これら2枚はイギリス製のアールヌーボーの花柄タイル。

タイルの1辺は6インチ(15.2cm)

                  

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日本製のタイル。1枚目の画像のタイルを写したもの。

               

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日本製アールデコタイル。

                     

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技量を云々評価するほどの見識はないが、さすがイギリスのタイルは釉薬ののせ方が上手く、素人目で見ても表面から側面に液だれした形跡がほとんどないし、細かな貫入も味わいを醸している。それに比べると日本製のタイルは裏面にまで釉薬が流れているものがあり、貫入もひび割れのように一様ではない。タイルに複数の色をつける時、色が混じらないように女子作業員がタイルの境界線にクリームを塗っていたこともあったそうだ。

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2008年3月 9日 (日)

統制陶器 その5.仁丹・TOTO・INAX

電子レンジの回転皿のような盆である。言わずと知れた仁丹の広告が入っている。仁丹のフリガナ以外は全部漢字で中国語の広告文になっている。戦前から仁丹(森下仁丹)は広告、看板、販売促進のノベルティなどを使い広域的な宣伝活動を展開しており、中国も例外ではなかった。大々的な広告活動の効果があってか中国でもかなりの売れ行きがあり、仁丹は非常に知名度の高い商標であった。

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中国における仁丹の歴史を語る上で、ふれるべきエピソードがある。
仁丹が市場を席巻するなか、民族ブランドの衰退を危惧した上海で薬局を経営する黄楚九が「仁丹」に対抗して「人丹」なる商標の薬を発売した。仁丹も人丹も中国の発音では共にレンダンである。人丹も広告活動に力を入れ知名度が上がってくると、仁丹はついに人丹を商標権の侵害で訴えを起こした。ところが法廷は仁丹の主張を認めず仁丹敗訴の結果に終わる。このことに加え反日団体の働きかけもあって、仁丹の広告掲載を中止した新聞もあったようだ。1920年代のことである。第一次世界大戦後、1919年山東省のドイツの権益を日本が引き継いだことに端を発したいわゆる五四運動に象徴される反日・愛国運動の社会情勢の影響を少なからず受けたに違いない。

裏を見てみよう。岐1087の刻印とバックマークに日本陶業株式會社とTOYOTOKIKAISHAとある。日本陶業株式會社は1917年に伊奈長三郎が創業した会社で、現在はINAXの子会社である。TOYOTOKIKAISHAとは1917年創業の東洋陶器であろう。盆のマークはこの2社の名前の組合わせになっているが、いわゆるオールド東陶の裏印とは違うものだ。このようなマークがあったのだろうか。

2社に共通するのは大倉和親である。大倉和親は東洋陶器(現TOTO)の大株主であり社長、1924年に創業の伊奈製陶の大株主であり会長であった。伊奈製陶の経営不振時には私財を投じてまで伊奈長三郎を支援している。非常に深いつながりがあって当然であるが・・・

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また統制番号が気になる。この仁丹と同じ盆は別なところでも見たことがあるが、裏には統制番号はなかった。一方、岐1087は別な皿でも見ることができる。所在地からすると日本陶業株式會社がこの岐1087の業者に盆の製造を委託したと考えられる。

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