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2008年4月

2008年4月30日 (水)

租界時代の電柱

久しぶりに人民路を歩いてみると、かなり家屋の取り壊しが進んでいてSWWのマンホールがあった場所もご覧の通り道路工事中であった。 

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この近くにフランス租界の三角電柱もあったはずで気になって探してみると盛沢路とのT字路に1本残っていた。以前は建物があって物干し竿の洗濯物が突き出てよく見えなかったが、こうして電柱だけになると全体がよく見える。電柱の根元は割と幅があり先端(上部)が細くなっているのがはっきりわかる。 

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なお上海のフランス租界のコンクリート製三角タイプと共同租界の木製角型タイプの電柱については、以前に掲げた藤原恵洋氏の著書の中で、租界の境界だった延安路の両脇で電柱のタイプが異なることが記されている。私の場合、電柱の形が租界の違いを象徴するものと受け止めて、租界によって電柱タイプが二分されると長らく誤解していた。

そもそも共同租界に設立された電力会社はフランス租界にも電力を供給しており、初期にフランス租界内に整備した電柱もフランス租界独自のものではない。またフランス租界に電力会社が出来てからも租界が拡張するにつれ電力需要が高まるが、十分な電力が確保できず共同租界側から供給を受けていた。電力事業は公営のみならず私企業も参入していたし電柱以外にも埋設ケーブルもあり、上水道より複雑な経緯をたどって電力網が整備されていった。共同租界で多く見られる木製電柱もフランス租界にもある。ただし三角電柱は共同租界側では見かけたことがないので、フランス租界ならではのものと言えるかもしれない。

絶滅の危機を感じる人民路の三角電柱であるが、他の場所にないか探してみると結構残っていた。復興中路沿いに瑞金二路交差点から西へ茂名南路交差点を超えて陝西南路交差点までの間を歩くと探さなくとも目に入る。ただし人民路のものより短い(背が低い)ようだ。

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これから先も残るのかと思いきや、よく見ると筋金入りの割に脆弱で所々コンクリートが剥離していて使い物になりそうではない。

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陝西南路の交差点近くガソリンスタンドの向かい(陝西南路)には角型電柱もある。

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租界ではなく上海縣城内(長生街)にも角型電柱がある。もはや電柱としては使われておらず無用の長物となり布団を干すのにも邪魔になるので途中から切断されている。

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電柱の形以外にも注目してみよう。

虹口区の四川北路は共同租界から外に延びる越界路と呼ばれる特殊な道路だった。四川北路は中国の一般地区(租界外)から租界へとつながる道路だったので人の往来が激しく、道路が混雑したり、租界外側の道路は路面状態が悪く、天気が悪い日はぬかるんで最悪だったようだ。租界当局が道路整備の必要性を説くにも関わらず中国側が一向に対応しないため、租界当局が道路舗装、警察配置せざるを得ず、こうして形成されたのが越界路である、というのが租界側の弁である。道路とはいえ実質租界が外に触手のように延び出たような地域である。

さて、この四川北路の電柱には特徴があった。材質は木製角型であるがそれはさて置き、それ以上に越界路ならではの重要な意味があった。越界路であることを示すため沿道の電柱は赤いペンキで塗られていたそうである。単なる電線の支柱ではなく租界当局の権力が及んでいることを明確に示す目印の役割もあった。詳しく調べていないので分布範囲など具体的なことは定かでないが、06年夏頃まで残っていた電柱の写真を見直すと、確かに赤い。

これは魯迅公園近く、かつて内山書店だったという銀行の前にあった電柱である。よく見ると赤く塗られていた痕跡がある。

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四川北路を南に下るともう一本あったが、これも同じ色だった。

しかし越界路の電柱に限って赤色だったというわけではない。共同租界、フランス租界にも赤電柱はある。木製角型電柱の多くは茶色(防腐剤のクレオソート油の色だろう)であるが、越界路以外でもわざわざ赤い色にするのにはどんな理由があったのだろうか。

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2008年4月21日 (月)

上海 租界の消火栓図録

SWW(Shanghai Waterworks Co.,Ltd.)の水の用途は飲料水だけではない。フランス租界の火災が水道整備を推し進める一因だったことからもわかるように、消防用水にも使用されていた。今でも上海の路地の傍らに租界時代に設置された焦茶色の鉄の消火栓を見かけるが、ほとんどのものは破損していて原型をとどめていない。壊れた消火栓もそれなりに古びた味わいを出しているが、やはりオリジナルに近いものが見たかった。良好な状態の消火栓が残っているのか極めて望み薄だったが、犬も歩けば棒に当たるもので結果としては予想を覆す収穫があった(といっても簡単に見つかったわけではない)。よくぞ今まで残っていたものだと思うが、確認時期はそれぞれ異なり数年の幅があるので現在はすでに無くなったものもある。

郵便ポストのような形をしたSWWの消火栓である。1924など年号入りのものもある。

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SFB(Shanghai Fire Brigade)の消火栓。最近になって赤く塗られたようであるが、この姿を目の当たりにすると今も現役かと思ってしまう。本体には S.F.B. PUMPING CONNECTION No. と鋳刻されてされている。

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これはフランス租界にあるCMF(公董局)の消火栓。CMF PUMPING CONNECTION の文字がある。

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SFBの消火栓と似ている。消防組織は共同租界とフランス租界で別々であったが、必要な場合は相互に消火支援体制をとっていたので規格は同じはずだが、ホースの接続部分が違うような・・・。 肝心のサイズは測り忘れた。

次は火を消す役割を担いながらZIPPOライターを彷彿させるタイプ。半分埋没したものをよく見かける。上海は地盤沈下が著しい。外灘の建築物を見ると入口から中に階段を降りるようになるほど沈んでいて、ひどいものは建物が傾斜しているらしい。埋没するのも地盤沈下の影響か?

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上とよく似たものにこんなのがあった。白ペンキで「消防・・・」の文字がうっすら残っているが最近のものだろう。最初同じタイプかと思っていたが、頂上部のカーブと胴体の凹みの幅が異なる。

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SFBとCMFの消火栓の上方の丸い部分は、もともと蓋でも付いていたのだろうか?では蓋があったとして何の役に立つのだろうか?相変わらずつまらない疑問がわいてくる。真相は分からないが、もしかして次の消火栓と同じものが付いていたのかもしれない。

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これまでのものと違い板金で作った箱みたいで蹴ると凹んでしまいそうであるが、リベットが打ってあり職人の手仕事によって作られたものである。丸い部分は所在地が鋳刻(陽刻)されたプレートがネジで取り付けられている。地番は「LANE」で示してあり、上海で一般に使われている「弄」の語源である。

これと同系統のものもある。壁に埋め込まれているので目につきにくい。

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時間のある方はプレートの地番を手がかりにお探しください。(おことわり:プレートには租界時代の地番が示してある。地番入り消火栓の1つ目は現在もあるか未確認だが、2つ目は現存している。)

この壁に嵌め込まれた消火栓を発見したことで新たな道が開けた。消火栓は突出するとは限らず平面の中に隠されていてもよいのだ。この種のくだらない発想は往々にして空回りするが、時として新たな発見を導くこともある。

これはSWWのマンホールではない。路面に埋められた消火栓の蓋である。

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さらに、壁に設置されたホースの接続口もある。プレートの文字はS.F.B. PUMP CONNECTION。

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これは蛇足になりそうであるが、壁に取り付けられた蓋の内側に消火栓があるかもしれないということで挙げておく。消火栓なら分かりやすく表示するはずにもかかわらず、SMCとしか表示がないので別なものがあるのかもしれない。工部局の蓋物としては他では見ないタイプである。旧上海レースクラブの建物にある。

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2008年4月17日 (木)

租界の上水道 SWWのマンホール蓋

前回は共同租界にあるCMF枠を取り上げたので、今回はマンホール第2弾共同租界からフランス租界へ続く上水道について紹介する。

 

共同租界の水道事業はSWW(Shanghai Waterworks Co., Ltd.)が行っていた。

SWWは工部局の承認を経て共同租界内での給水業務の権利を獲得したイギリスに登記された会社である。租界の水需要増加にともない元々工部局独自で給水場を建設しようという動きがあったのだがなかなか話がまとまらず、そうこうするうち1879年にフランス租界内で大火事が発生、消火活動の給水に問題があって甚大な被害をもたらした。これにより消防の面からも早急に対応しなければならない危機感が高まり、ようやく工部局が民間企業に許可を与えるという形でSWWが水道事業を獲得し1883年に楊樹浦給水場が竣工、送水開始となった。

  

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黄浦江からみたゴシック様式の楊浦浦給水場

   

給水場の建設のほか送水管が敷設されたが工事時期によって9ラインに分類できる。概略は次のとおりである。

第1ライン:口径500mm。鋳鉄管。全長4530m。1883年敷設。

第2ライン:口径275mm。鋳鉄管。1895年敷設。

第3ライン:口径500mm。鋳鉄管。全長4490m。1898年敷設。

第4ライン:口径625mm。鋳鉄管。全長1680m。1907年敷設。

第5ライン:口径750mm。鋳鉄管。全長425m。1915年敷設。

第6ライン:口径500mm。鋼管。全長1280m。1922年敷設。

第7ライン:口径1000mm/750mm。鋼管。全長5270m。1922年敷設。

第8ライン:口径1000mm/950mm/900mm。鋼管。全長4180m。1932年敷設。

第9ライン:口径500mm。鋼管。全長2070m。1936年敷設。

  

SWWのマンホール蓋には地下敷設物の情報が示してある。東大名路と閔行路の交差点付近にあったこのマンホール蓋はその典型である。

    

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蓋に情報がある以外に構造的にも蓋と枠が蝶番でつながっている点でこれまでのSMCCFSのものとは異なる。表示のサイズ40"(1000mm)からすると第7または第8ラインであるが、場所を考慮すると武昌路から大名路を通るという第8ラインのようだ。ただし蓋にはバイパス線とあり年代も比較的新しいので、第8ラインから分岐する線ということかもしれない。

   

この場所から西に北蘇州路は上海大厦の前に来るとこんな蓋がある。

         

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ところどころ摩耗しているが先ほど蓋を手本にすると、サイズは16MAINと判読できる。16インチ(40cm)は第1~8ラインのいずれでもない。蓋には1930とあり1934年竣工の上海大厦(ブロードウェイマンション)よりも古いもののようだ。

   

さらに蘇州北路を西へ歩き乍浦橋の手前にはこれがある。サイズの部分が欠損しているが、数字の形からして20OLD MAINである。

   

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第3ラインは楊樹浦路、東大名路、黄浦路、北蘇州路から江西路に延びる線である。蓋に表示のサイズも所在位置もこれに符合するので、この下には1898年の送水管があるはずだ。この年のものをOLDというのだからNEWはこれより時代が新しいということか。

       

次は場所を移して人民路である。歩いて行ったのではなくタクシーに乗って降りたところにこれがあった。河南南路を南下して人民路を右折してすぐのところである。

  

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この蓋を初めて見たならば見過ごしていたに違いない。摩耗が著しいがこれまでの蓋と比較しながら解読すると、サイズは20NEW MAIN である。この場所はフランス租界であり上3つ蓋は共同租界である。

  

調べてみるとSWWは共同租界内のみならずフランス租界へも水を供給している。1880年にフランス租界公董局はSWWと給水契約を結び、楊樹浦給水場の完成に先立つ1882年にはSWWによるフランス租界内の送水管の敷設工事が完了している。公董局は1898年にフランス租界の給水場建設を開始し1902年に董家渡給水場が落成するが、それまでの間はSWWから水の供給を受けていた。董家渡給水場が稼働するとSWWからの給水は打ち切りとなったが、それまで使用していたSWW敷設の送水管は公董局が買い上げ、引き続き董家渡給水場からの送水に使用された。つまりこの下の送水管は時代によって楊樹浦給水場と董家渡給水場の水が通ったものではないだろうか。

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2008年4月12日 (土)

共同租界にフランスのインフラ?

前々回からの上海の租界時代のマンホールについて話を続ける。パンダ型マンホールはその形と工部局前にあることから重要な意味合いがあるかのように考えられているが、そこから比較的離れた東大名路やこれから紹介する場所にも存在し分布は工部局周辺に限定されるものではない。またイギリスにある類似形状のマンホールを紹介したサイトがあり、パンダ型は工部局オリジナルのものではなく起源はイギリスのマンホールのようである。ついでながらパンダはいつ頃から広く知られるようになったのか。WWFのサイトを見ると1936年にルーク・ハークネスという人がアメリカにパンダの幼獣を連れて行ったことからアメリカでパンダブームが沸き起こったそうだ。なおパンダを撃った最初の外国人というのがセオドア・ルーズベルトというのが意外である。

    

話を戻すとパンダ型マンホールはこのようなものである。

      

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PWDは Public Works Departmentの略である。

これは北京西路と新昌路のT字路の横断歩道にある(女性の足下)。

   

        

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ここから北京西路を東に向かって歩く。

パンダ型は道路の中ほどにもある。

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また別の横断歩道にもある。

       

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さらに南京東路へと続く。

     

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という具合にうんざりする位になぜか横断歩道近くにある。ゼブラゾーンにパンダとはとぼけている。パンダ型ばかりでなく北京東路から南京東路に向かう貴州路と芝罘路の交差点近くに丸型もある。

    

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ついでに北京東路と福建中路の交差点に角型がある。

   

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少しくどい位に工部局マンホール蓋を列挙した。これらのタイプは既に知られたもので珍しくはない。工部局周辺でなくてもざらにあるということであり、工部局管轄下の共同租界に存在して当たり前である。

なお工部局ものにはパンダ型、丸型、角型以外にも格子型が外灘にある。蓋が裏返しになったようなつまづきやすい不合理な形状のものでSMCの表記はないがPWDの鋳刻がある。

 

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以上は前置きでいよいよ本題に入る。

SMCのマンホールだらけのこの場所にフランス租界当局のものがあったら普通ではない。その普通ではないものが実は存在する。広西北路路の北端、北京東路のつきあたりのT字路のまたも横断歩道にそれがある。フランス租界で見たCMF枠である。1935年のものである。画像ではCMFの文字が白ペンキで多少読みにくい。

   

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道路を渡るときに偶然見つけたのだが、何度も見たことのあるタイプの枠だったのでうっかり通り過ぎるところであった。そこはかつての共同租界であり、『共同租界に公董局』というミスマッチに気がついた時、ただならぬ租界遺物(?)の発見にしばらく酔いしれた。道路工事で実物が撤去されてから公表(実物はもともと公共の場にあるのだが)しても信憑性がないので、無くなる前に興味のある方は現地で確認していただければ幸いである。

マンホール地下の雨水排水ラインをたどるべく広西北路を歩いて見たが、類似の枠は散見されるもCMFの表示があるのはここだけであった。さらに周辺を調べれば他でも見つかるかもしれないが未調査である。

なぜこんなところにCMF枠があるのかは分からない。とりあえず2つの仮説を考えてみる。

 

仮説1.

中華人民共和国になってからの土木工事で、デッドストックや道路工事で回収されたフランス租界当局のマンホール枠が偶然にかつての共同租界で再利用された。

  

仮説2. 

この枠が租界時代からのものに違いないとすると、工部局と公董局との間でインフラ整備について何らかの取り決めがあった。

  

前者は非常に単純であるが、前に紹介したCMF枠の不可解な点についても説明がつく。新中国になってからソ連との関係が悪化しあわや核戦争に突入かという時代があり、当時中国各都市には核シェルターが建設されている。空襲に対する一時しのぎの防空壕ではなく、戦車やトラックが通行できるほどのトンネルが張り巡らされ、食糧備蓄、医療設備なども整い、地下要塞ともいうべき大規模なものである。地下壕については司馬遼太郎や陳舜臣のエッセイでも取り上げられているし、北京では地下商店街に改装されていたり、西安の地下深くにバーがあったりするが、地下壕の全貌は公にはなっていない。当然上海でも地下壕が建設されている。この工事で租界時代の下水道などのインフラを撤去したりして、建設当時のままであるとは限らないと思うのだ。

  

仮説2は本格的に調べる価値がありそうだ。というのも逆に共同租界のインフラがフランス租界に及んでいるものはないかと考えると、一つの例として上水道がある。共同租界にあるSWW(Shanghai Waterworks Co., Ltd.)が契約に基づきフランス租界に給水していた時期がある。文献を調べるとわかるが、マンホールにこだわればSWWのものがフランス租界でも見つかる。また上水道以外に淮海中路でMCものを発見しているので、忘れられた裏事情があってもおかしくない。これらはまたあらためて紹介したい。

  

 

    

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2008年4月 3日 (木)

蘇州のアールデコ看板建築

マジョリカタイルの看板建築の続きである。

看板建築とは日本では関東大震災の復興期に築かれた商店街に見られる建築様式で、人目に触れる通りに面した壁面に意匠を凝らした装飾が見られるのが特徴である。建築全体や内装まで外観の様式で統一されているわけではない。震災復興で道幅を拡張したため、商店の建築は道路に突出しないようにまるで看板のような出っ張りのない壁面に装飾が施されていることから、建築探偵として有名な藤森照信氏が看板建築と命名したものである。

蘇州の西中市という通りを歩くと看板建築を見ることができる。

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マジョリカタイルで装飾した建築の隣にある薬局、お茶屋もアールデコの看板建築であった。

ここから東へ向かって歩いてみる。ふと沿道の住宅の玄関を覗くと床タイルも洋風だったりする。

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見上げるとデコ様式の看板建築がちらほら目にはいってくる。

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両隣のデコ様式に挟まれた中華文様のコウモリ 。         

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右のアールデコは窓が一つコンクリートで埋められている。

シャツの向こうの壁面から球体が半分突出したオブジェがある。                           

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中央の建築には稚拙な絵でコウモリと雲が描かれている。福運を意味する吉祥文様であるが、隣のアールデコに圧倒されて貧相な雰囲気が漂う。      

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コウモリの左隣のアールデコ。幾何学模様を多用して見て楽しい。躊躇なく取り付けたエアコン室外機、レンガで潰された窓が雰囲気を損なっているのが残念。            

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中国工商銀行の壁面にはモザイクタイルが貼ってある。 

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逆光が似合う中国移動通信。                

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これまでとちょっと趣が異なる落ち着いた感じ。

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交差点にある雑貨屋。   

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壁面に龍井という文字の痕があるので昔は茶館だったと思われる。窓の桟も階段状に山型になっていてアールデコ調で統一されている。昔こんな店でコーヒーではなくお茶を飲んでいたのだろうか。   

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