租界

2009年4月13日 (月)

租界の外にある界石について

これは虬江支路からさらに小さな路地を入ったところにあった界石である。界石は土地の境界に設置されるものであるが、何かの都合で元の場所から引き抜かれて、排水口のグレーティング周りの敷石にされていた。この界石にはPAOSHAN(漢字にすれば宝山)とある。昔この辺りは宝山県であったことと関連がありそうである。

A1301

以前、界石を探すようになったきっかけを書いた。薛理勇氏の著書の中で、現存する界石は100個もないだろうと推定され、発見した場合は博物館に連絡して保護に協力してほしい旨あった。それに触発されて私が探したところ見つかった界石は100を超え、それらの写真と所在地リストを上海市歴史博物館に提出したことがある。念のため上海市歴史博物館は人民広場にある博物館ではない。そこは上海博物館で、上海市歴史博物館の展示室は現在東方明珠電視塔にある。私が訪れたのは上海市歴史博物館の事務所(展示室とはまた別な場所)である。薛氏は外出中でお会いできながったが要職にある方(個人が特定されるので敢えて伏せる)に面会いただき、その後界石は保存されることを確信し、当時留学中だった私は程なくして上海を去った。2002年のことである。

ところが、その翌年11月地元の新聞ウェブサイトを見て驚いた。マンション建設現場で租界時代の界石発見の記事が写真入りで出ていた。上の界石である。古い民家の取り壊し工事の最中に、住民が界石を発見し新聞社に通報したらしく、歴史専門家の見解として、かの薛氏のコメントが添えられている。この記事にはショックを受けた。界石の場所を博物館に知らせていたにも関らず、その後何ら保護するような手立てが講じられていなかったということである。私が博物館に知らせて1年後になって住民が発見し博物館員が初めて知るという経緯は理解できない。どんな理由があったにせよ、館内で情報が伝達されていなかったことは明らかである。幸いこの界石は保存されたが、他の界石のほとんどは既に瓦礫になったに違いなく、何ともやりきれない思いがした。

中国では記事がいろいろなところに転用されているので、当時の新聞記事が今でも残っていた。

http://news.sina.com.cn/c/2003-11-14/08191117258s.shtml

新聞記事では、租界の外に界石があるのは外国の侵略の物証だと強調しているが、そう簡単に結論できるものではなく慎重に検証する必要がある。以前紹介した准転道契地区の地図を見ればわかるが、租界の外でも外国人は土地所有できたのである。

なお博物館に収蔵された界石は、薛氏の解説付きで上海市歴史博物館のウェブサイトで公開されている。

http://www.historymuseum.sh.cn/content.php?ID=41

上のサイトでは界石にLotという文字がないこと、刻まれたC.L.W.をChinese Land Wardと解釈し上海会丈局のことが中心に解説されている。しかし話の前提になるC.L.W.が本当にChinese Land Wardの略号であるのか疑問がある。もしその通りであれば他にも界石があってもよさそうであるが、私の見た限りでは同様のものはない。もっとも私の知る界石は実在した全体数からすれば微々たるものであるが、界石に刻まれた略号は様々であり解読困難なものが多い。他にも同サイトにある別の界石でA.E.A.と刻まれたものについて、薛氏の解釈ではArea East Aである。ならばA.W.B(Area West B)という界石があってもよさそうであるが、裏付ける規則や物証はない。界石の表記について本来は原則があったに違いないが、実際はいろいろな略号が使用され原則通りではないことは、界石を多く見れば明白である。界石に何が刻まれたかについてはあらためて考えたい。

新聞記事にも博物館の記事にもないが、実はこの宝山の界石の近くには他にも界石があって、それらを含めてこの場所の特徴を考えると興味深い。

排水口の宝山界石はすでに境界の目印としての意味はない。当時近くの住民にどこにあったのか尋ねても不明であったが、重いものなので遠く離れた所から運んできたものではないだろう。付近を探してみると20メートルほど離れたところにBC LOT界石があった。

A1302

ドアの左下、鉄柱の根元付近にある。

A1303

これらの界石の所在地は、租界と同様に治外法権下の越界路であった四川北路より西側になる。ここから少し西に行けば軽軌(高架を通る電車)の宝山路駅である。今とは違い租界時代はここが上海駅であり、上海と南京を結ぶ鉄道の要衝であった。またこの地域は共同租界の北側に接し、東側には越界路(四川北路)が延び、租界拡張で今にも呑まれそうで、中国側からすれば何としても死守せねばならない場所であった。租界の行政機構の工部局や公董局はよく知られるが、租界の勢力拡大の一方で主権保護の重要性に目覚めた中国の行政機構の存在は無視できない。従来上海の行政機構は官僚主導であったが、中国の権益確保に紳商が立ち上がり自治行政への影響力を強く持つようになっていった。その時代を象徴するかのような界石がここにある。BC LOT界石の道路を挟んだ向かい側に、滬北工巡捐局の石がある。

A1305

画面右奥には先ほどのBC LOT界石があるが、自動車の隣の青いシャッターの両脇にあるのは滬北工巡捐局の界石である(虬江支路290)。

A1306

上海市政府ができる以前は、上海は多い時で4つの行政エリアに分かれていた。滬北工巡捐局は閘北の行政機構である。閘北行政の変遷を調べると機構名称が何度も変わっており、1918年から1925年、1926年3月から5月、1927年3月から7月の間、滬北工巡捐局の名称が使われている。期間の長さからして、1918年から1925年の間の界石の可能性が高い。

租界の地価高騰をきっかけに不動産投機が過熱し、土地があれば見境なく売り払い外国領事館に登記し道契を得るのが主流であるにもかかわらず、頑なに権益を守ろうと自国の行政機構に土地登記した証しとすると、非常に貴重な界石ではないだろうか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年3月29日 (日)

道契について その3. 四明公所と同仁輔元堂分堂の敷地跡

旧フランス租界の人民路858に四明公所の門が残っている。ここはかつて寧波同郷人の会館であった。上海に移り住んだ寧波出身者同士の互助活動の拠点で、貧困者の救済や葬儀や埋葬なども行っていた。現存する門は、1874年と1898年に起きた四明公所事件を象徴する歴史文化財として保護されている。

M2901

四明公所事件とは、道路建設のため敷地を強制収用しようとするフランス租界当局と、これに反対する中国人民衆とが衝突し中国側に死傷者を出した事件である。これをフランス租界当局の横暴と中国民衆の正義を対照的に捉えるのが主流であるが、上海档案館編「租界里的上海」上海科学出版社に収録の曹勝梅「四明公所事件之根源」は紛争の根底にある土地所有権をめぐる問題を明かしている。

1861年フランス租界が拡張された際、四明公所代表の葛蕃甫らは土地の保護を求めて上海フランス領事のB・エダンに陳情する。B・エダンは中国人墓地という神聖な場所であることを斟酌した上で、兄のV・エダンの名義で土地をフランス領事館に登記することを提言、四明公所側はこれに同意し同年土地登記が完了する。B・エダンは悪意があったわけではないだろうが、これが後に災いとなるのだ。

当時フランス領事館が扱う土地登記書は「フランス公館契」という特殊なものであった。道契の一種ともいえるが通常の道契と少し違うところがある。当時フランス租界での土地売買は少なく手続き制度が確立していなかったこと、小刀会が上海県城を占拠し中国当局の行政機能が麻痺したことから、道契に中国当局の印がなくともフランス領事館の印さえあれば、――後年、中国当局へ送付し押印を受けるという道契同様の手続きを取り直す必要はあったが――暫定的ながら有効なものとなった。この公館契は道路建設などの場合に土地を収用できる権利がフランス当局にあり、名義人の権利は制約されていたのである。

また公館契上の所有者はV・エダンであったので、V・エダンから四明公所に所有権を授権することを約束する証書つまり権柄単が発行された。しかし権柄単は租界の土地取り引きに関する法的裏付けのない私文書である。

四明公所の土地登記には以上のような問題を含有していた(といっても別な選択肢があったわけではない)。事情を理解しているB・エダンが上海領事のうちはよかったが、1863年彼が天津に転勤となり状況が変化する。B・エダンは後任者に申し送りするも十分に引き継がれず、フランス公董局が四明公所の敷地を通る道路建設が決定され、さらにB・エダンが逝去したことで、唯一権柄単の裏付けとなっていたB・エダンと四明公所との紳士協定は消滅した。

そして1874年フランス公董局は工事に着手しようとするのだが、四明公所ほか民衆の強烈な反対に遭い中国側に死傷者を出して一時中断、1898年には武力行使を伴う強制収用に出て再び死傷者を出す惨事を起こすに至ったのである。

前掲論文の筆者は事件の根源にある問題として、フランス公董局の責任や中国人の権益に対する尊重の欠如を指摘しているが、いま一つ的を得たものとは思わない。中国の中にある租界という外国における中国人の権利は一体何によって保障されるのか、そもそも明確ではない。この事件は、たまたま道路建設予定地に四明公所があったことと権柄単で土地を所有することの問題が悲運な結果を招いたものと思う。租界内の中国人の土地が全てこのような扱いを受けた訳ではなく、租界のインフラ整備・不動産価格上昇とともに制度の曖昧さの中でちゃっかり利益を享受したことも事実である(前回の准転道契区域も然り)。

例えば同じくフランス租界に拠点を置く同仁輔元堂分堂は四明公所のようなことになっていない。同仁輔元堂分堂とは当時の善堂(民間の慈善事業団体)の一つである。善堂は四明公所と活動内容は似ているが同郷人会ではなく、食糧・衣料の配給や医療活動など貧困民の救済を行っていた。活動資金は中国人の商業団体からの定期的な義捐金で賄われており、紳商・篤志家は活動を支援することにより中国人社会での信頼を高め自治行政への影響力を持つようになった。上海には数多くの善堂があり、その中でも最たるものは同仁輔元堂で上海善堂の主導的立場にあった。同仁輔元堂分堂は1861年にフランス租界(寧波路:現在の淮海東路)に設立された屈指の善堂で地方自治の重要拠点であった。

四明公所から人民路に沿って少し北上すると永寿路との交差点にくさび型の一画がある。人民路×永寿路×淮海東路の3本の道路で囲まれた小さな敷地である。

M2902

ここの片隅に界石がある(交通標識の柱の根元近く)。半分は埋没しているが状態は良く同仁輔・・・と読める。立地から考えて、「同仁輔元堂分堂」の界石である。また上部の文字はFC18であろうか(数字2桁は私が見た界石のなかではここだけである。フランス租界の早期のものかと思うが界石の番号についてはあらためて取り上げたい)。

M2903

この界石から同仁輔元堂分堂が自己の所有地をフランス領事館に登記したことがうかがえる。さらに租界の土地取り引きの早期から外国人の名義借りが行われていたことを示唆する物証といえよう。

しかしこの一画のみが同仁輔元堂分堂の土地ではあるまい。ここは少し小さい気がする。そう思って永寿路を北に歩を進めるとやはり界石があった(永寿路105)。漆喰が塗られているが、同仁・・・と判読できる。同じく同仁輔元堂分堂であろう。

M2904

同分堂は義捐金以外にも不動産収入を慈善活動の資金に充てていたというから、賃貸していた土地を所有していたはずである。この辺りは同分堂の拠点であったか、あるいは賃貸していた土地であった可能性もある。土地を手放さず外国人名義の道契と紐付けにした権柄単を所有し、活動拠点にしたり土地を貸し付けて収益を得ていたわけである。

このような土地所有は四明公所と同じリスクがあったはずだが、四明公所のように歴史に残る事件はないことからすれば、特に立ち退き問題等が発生しない限りは権柄単による中国人・団体の土地所有は成立(あくまで結果オーライ)していたようである。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年3月20日 (金)

道契について その2

外国人が土地を所有できたのは租界か越界路と思われがちであるが実はそうではない。准転道契区域も租界同様に不動産取引きされていた。下は1933年に発行の「上海公共租界制度」(徐公粛・邱瑾璋著)に添付されている地図である。赤い線で囲まれた範囲が准転道契区域である。実に租界以上の広さがある。

B0311_2 

にも関わらず租界ほど准転道契区域のことは知られていない。アヘン戦争でイギリスに敗北したことを端緒に中国が外国人に居住地を開放して形成されたのが租界であるが、准転道契区域は中国側から外国人に開放した地域である。

1853年に「反清復明」を掲げ武装蜂起した小刀会の上海県城占拠や太平天国軍の江南地区の占領など相次ぐ動乱で、中国民衆が避難地を求め租界に大量流入し、租界人口が急増する。それは一時しのぎの避難ではなく難民がそのまま定住し、資本家も活動拠点を租界へと移すなどして、本来外国人を隔離して居住させた租界が中国人と雑居する状態となった。これを契機に租界が拡張していくことになるのだが、これを単に列強による版図拡大と片付けるわけにはいかない。

租界の人口増加に伴い必然的に土地や家屋の価格が上昇した。それは租界内にとどまらず、租界を超えて農耕地までも投機の対象になった。そして租界が拡張しインフラが整備されると土地の価値が上がり、さらに不動産投資されるという連鎖ができた。さらに外国領事館に登記した土地の道契は信用の高い債券となり、金融市場の形成に貢献し上海経済の土地本位制を築くに至ったのである。

この不動産投資は外国人の独壇場かのようであるが、水面下で中国人も利益を享受していたようだ。中国人地主が外国人に土地を売却した後は、道契上の名義は外国人であり不動産取引に中国人は関与できなかったが、前回紹介した権柄単により中国人地主は外国人名義を借り道契を取得して自分の土地を外国化する裏技が編み出された。土地の所有権を保持したまま自国の租税を逃れる一方、外国人に土地を貸し付け収入を得る功利的な方法である。このやり口は横行し租界から外へと広まり中国当局も頭を痛めていたものの、結局既成事実を承認するように設定したのが准転道契区域である。准転道契区域は道契手続きの点からすれば租界のようであるが、租界ではない。租界は中国の汪政権へ返還をもってその歴史を閉じたが、そのことと道契の有効性は同じではない。

前回の道契は准転道契区域(引翔区)のものである。どういうルートで流出したのかこの道契には後々の書類が附属されていて、道契登記の土地が戦後に中国に戻るまでの手続き書類を含め揃っている。つまり土地登記の変遷を知ることができるのだ。道契から中国の土地登記書に戻されたのはいつだろうか。書類を見ると1946年10月30日に上海市地政局へ土地所有権の登記申請(道契の書き換え)が出され、翌47年4月25日に手続き完了している。つまりそれまでは道契は有効であったと考えてよいだろう。租界と同時に道契が失効したわけではない。

また第二次大戦終結では、日本、ドイツ、イタリアなどは敗戦とともに資産は没収されたが、戦勝国領事館に登記された道契は依然と有効であった。更に一つ興味深いのは、土地登記の申請人である。権柄単の保持者が土地所有者として申請し認められていることである。そもそも道契の権柄単には法的裏付けがなく、あくまで道契上の名義人こそ地権者であった。仮に権柄単の名義人を正当な地権者とすると、中国人が外国人名義で土地を非中国化し所有することができたことになるが、それは合法的でなく矛盾を生じる。ところが戦後の土地登記(道契の書き換え)では、権柄単の名義人が所有者として認められているのである。このあたりのことは専門家の調査研究を待ちたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 1日 (日)

上海租界の繁栄の裏 道契について(その1)

上海租界時代の界石の続きになるが、いよいよ道契について話さなければなるまい。道契とは外国人の永租権を証明する土地の権利書である。当時は土地の所有権は中国皇帝にあったので、一般人は土地売買はできず借地権の売買しかできないという理屈であったが、金を出せば期限なく借地できた。永久に借りるということから永租といい、実質的には所有とほぼ同様であった。道契という名称は上海道台の道と契約の契からきている。

外国人が土地を取得する場合は次のような手続きをとった。

1.外国人が中国人地主から土地を購入し、地主が外国人に売ったことを中国土地当局に届け出。

2.外国人は自国領事館に土地区画の図面など書類を提出。

3.領事は中国土地当局に確認照会のため書類を送付。

4.中国土地当局が確認後捺印して領事館に返送。

こうして正式に外国人の土地となった。

これが道契である。

B0301

F.C.LOT 3072 の番号がある。フランス領事館に登記された土地の道契である。写真は二つ折りにした状態であるが裏面にはフランス語で記載され領事館印やサインが入っている。また土地区画図や付属書類も添付されている。

中文面の右上に「下」とある。もともと道契は1セット上、中、下の3部発行されている。上は領事館、中は中国土地局、下は土地所有者が保管することになっていたが、それほど厳格ではなかったようで必ずしもこの通りではない。

B0302

この道契の記載によれば土地所有者は泰利有限公司(Brandt & Rodgers)という不動産会社である。

数年前に「上海道契」という本が上海で出版されている。未見であるが上海土地当局に保管されていたものが大量に発見され、その道契を複写したものらしく資料として貴重なものである。しかし土地所有者の道契にあって領事館や中国土地当局に残っている道契にはないものがある。それは土地所有者の道契のみに添付されていた権柄単(Declaration of Trust)という証書である。

B0303

権柄単とは、道契上の土地所有者が別のものに所有権を譲る旨を明記した証書である。上の権柄単の裏面には中国人名が裏書、署名されている。つまり中国人が外国人の名義を借りて外国人領事館に土地登記したということである。道契の発行(外国人の居住地獲得)はアヘン戦争以降の国家間の条約や取り決めに基づくものではあるが、権柄単の発行は中国人が外国人名義を使って外国領事管轄の土地にするための裏技的手法であり、法的根拠はない。当時このような裏技が横行しトラブルも少なくなかったようだ。租界を拡張するフランス公董局の横暴と片付けられる四明公所事件の裏にも権柄単の問題がある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月24日 (土)

上海新天地から東台路にかけてのB.C.LOT界石

上海には「新天地」という租界時代の建物を改装した飲食店などが並ぶお洒落な一画がある。かつてワクワクのフランス租界で取り上げたCMFのマンホール枠があるところだ。

A523002

A523003

A523005

そこには新吉士というレストランがある。

Dsc05501

このレストランには入ったことはないが、外側におもしろいものがある。黄陂南路に面して界石が2つある。風化しているのではじめての人には読みにくいが、BCLOT界石である。ちなみに建物の上に建造年を示す1925とある。

建物に向かって左側角(バイクの向こう側に隠れている)の界石。

P0000

同じく右側の角の界石。

P0001

D&B BC LOT 11975と刻まれているようだ。晴れた日より雨に濡れた方が読みやすい。字が読み難く釈然としない方のために、もう一つ。「夜上海」というレストランに行かれたし。ここの角には、区画番号の刻字位置が珍しいタイプの界石がある。

A523001 

「盛慶記」とあるが側面の文字を見逃してはいけない。縦書きで「BC|635」とある。人が大勢訪れる場所でありながら気づく人はほとんどいないようだ。なお、この界石のある敷地の対角線には共産党一大会址の博物館の入場券売り場があり、そこにも盛慶記の石があるがBC番号は読めない。

A523000_2

新天地から東へ少し歩くと骨董店が立ち並ぶ東台路までに吉安路がある。ここは間もなく取り壊しであるが、ここにもBCLOT界石がある。

A523006

上の写真の左手前の青レンガの下に界石がある(これ以外にも電柱あたりに界石がある)。

A523008

東台路×崇徳路の近くにこんな界石もある。

P0002

東台路に入ると骨董品、民芸品などに目が移ってしまうが、周辺を注意して見ると三角電柱があることに最近気づいた。2本の電柱のうち左が三角電柱であるが、学校の塀と骨董屋の小屋の間にあって下の方は見えない。

A523009

A523010

東台路を南下していくと骨董店もなくなり、袋小路になる。観光客はここでUターンするところである。しかしよく見ると突き当たりの横に小道があり復興中路に抜けることができる。ちょうどこの抜け道の角に界石がある。

P0004

1929年に建てられた家屋、白シャツの男性の左の角に界石がある。

P0003

判読は難しいがBCLOT界石である。

これらは全てフランス租界にあるBCLOT界石である。フランス租界とイギリス領事館という取り合わせである。何故だろう。非常に不思議に思っていたのだが、分かると何てことはない。

租界の歴史を紐解くと、外国人が居住の根拠となった「土地章程」という取り決めがある。1845年イギリス初代の上海領事であるジョージ・バルフォアが上海道台宮慕久から外国人の居住地を獲得し、締結したのが土地章程(Land Regulation)である。これによって外国人が上海に住むことができるようになるのだが、イギリス人以外の外国人であっても借地契約を結ぶ場合はイギリス領事の許可を得ることが義務付けられていた。最恵国待遇を受けることができたアメリカ、フランスは承服しがたく、反発するかのように独自の租界を開設するようになる。当初のままであれば、イギリス租界にはB.C.LOT界石しかなかったはずである。しかしイギリスの2代目上海領事オールコックによって土地章程が改訂され、対象がイギリス人限定から居住するすべての外国人に拡大、平等に適用されるようになった。これは1854年の第二次土地章程と呼ばれる。フランス租界にB.C.LOT界石があるのは第二次土地章程の内容を裏付けるものであろう。

さて、これで一件落着かと思っていると更にややこしい裏事情がある。新天地の写真集を古本屋で見ていると、現在「新吉士」のある敷地はかつて中国人の土地だったようである。中国人が所有(永租)するイギリス領事館に登記されたフランス租界内の土地とは・・・

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年5月18日 (日)

租界の石

これまでに上海の租界時代の遺物をいくつか紹介したが、なかでも租界の極めて重要なモノはまだ取り上げていなかった。これを説明するには私には難しいので躊躇していたが、やはり無視できないので紹介しよう。

それは「界石」である。界石とは土地の境界線に設置される標石のことである。昔中国の男性は自分の本名以外に別名を持っていて通常はこちらの名前を使うことが多かった。いわゆる字(あざな)である。かの蒋介石は介石は字で、名前は中正である。字は真中に正しく(中正)設置される界石(介石)に因んだそうである。

話が逸れたが、界石はたびたび引いてきた藤原氏の本の中にも出てくるが、マンホール蓋や電柱ほど目立つものではないため、あまり知られていないようだ。詳しい説明としては上海市歴史博物館の薛理勇氏の著書「旧上海租界史話」(上海社会科学院出版)のなかの「租界的“B.C.Lot”界石」がある。同書では住民が里弄で発見した界石についての解説から始まり、現存するものは100個もないであろうと推定し、発見した場合は保護のため博物館に知らせてほしいと結んである。それを読んで実物を見たくなり、100個発見を目標にして注意深く探し歩いた。ちょうど2002年日韓ワールドカップサッカーの試合中継をしていた頃で、里弄の中を歩くとどこでもテレビ観戦中とみえて歓声が外に漏れ聞こえていた。所構わず歩きまわり結果的には100を上回る界石を発見した。最初は単なる数探しであったが、石の所在地や刻んである文字など考えるうちにどんどん深みにはまってしまった。発見した界石については、本に書いてあるとおり博物館に報告したが後日譚はまたあらためて触れる。

界石は租界時代の不動産取引の遺物であり、借地契約書である「道契」に添付される土地区画図に示されている。よって界石のみ取沙汰しても仕方なく、道契について理解する必要があるが、インターネットで検索してもなぜか日本のサイトではごく少数しかヒットしない(道契という僧侶がヒットするが租界とは関係ない)。またネット以外にも上海租界の歴史についての記述物は多数あれど、現在においては道契について触れることなく租界史を語るものがほとんどで、画竜点睛を欠いたようだ。上海租界の奇妙な拡大、発展の鍵となる道契もいずれ取り上げたい。

前置きが長くなったが界石はどんなものかご覧いただきたい。先ずはB.C.LOT界石である。B.C.はBritish Consulate (イギリス領事館)の略号である。それに続いて区画番号がある。

B518bc3

界石は土地の区画境界線に設置されているから、界石が1つ見つかれば他の角にも同様の界石があるはずで、四角形の土地であれば四隅にあったり、隣あって別の番号の界石がある。しかし設置したままの状態で今に残っているのはごく僅かであろう。

B518bc4

イギリス領事館があれば当然フランス領事館もある。

B518fc

となるとアメリカ領事館もある。

B518usc

イギリス、フランス、アメリカを並べると各国租界を想起してしまうが注意が必要である。私はうっかり租界と界石の領事館は一致するものだと思い込んでいた。イギリス租界にはB.C.Lot界石があり、フランス租界にはF.C.Lot界石があるのだと。しかしこれは誤りである。租界の国名ではなく、土地登記された領事館の略号が刻字されている。この記事のタイトルを租界の石としたが、本当は租界時代の石というのが適当である。何のことかよくお分かり頂けないと思うので、界石については少しずつ説明していきたい。次回は私が謎と思い込んでいたフランス租界にあるB.C.Lot界石を例に考えたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 8日 (木)

上海の下町に残るアールヌーボー装飾

租界時代の住宅の窓やバルコニーの装飾、面格子などを見ていると、様々な意匠があり百花繚乱の感がある。上海にはアールデコ様式のデザインの建築物が多く、華洋折衷の様式も見ることができる。

B505005

B505011b

B505003

下は「寿」の文字を図案化した吉祥文様とアールデコの融合した装飾。

B505011a

一方、アールヌーボー様式は少ないといわれ、なかなかお目にかかれない。写真集で外灘の気象信号台のヌーボー意匠の装飾を見たくらいだ。

かつて日本人が多く住んでいた虹口の古い住宅はさらに取り壊しが進んでいるようで、労働節の連休に訪れてみた。

竹が組まれているのは間もなく取り壊される建物である。

B505013

壊される区画もあれば、活気にあふれた区画もある。

Dsc06163

この辺りはこれまでに何度か歩いたことがあるが、今回初めて気がついたものがある。バルコニーの装飾である。蔓草が下にたわんだ曲線が特徴的な上海では珍しいとされるアールヌーボー意匠である。

Dsc06161

現地ではよく見えなかったが、あとでカメラの画像を見ると、なかなか手の込んだ鍛冶屋職人の技が見て取れる。蔓草の曲線を最上部の葉の部分から辿っていくと一本の鉄線が加工してあるように見え(実は目立たないように上手くつないであって一本ではなさそうであるがそれにしても技がある)、中心線に三か所で束ねてある。また鉄線を単に曲げるのではなく、所々平らに延ばして蔓の太さに変化をつけ、固い鉄の棒でやわらかな曲線を表現している。

なぜか上下逆に取り付けられている部分もある。

B5050012

このバルコニーの装飾は峨眉路×閔行路周辺の住宅に残っている。地元住民も意識しているのか、申し合わせたかのように各戸の物干し受けをヌーボー調で統一しているが、これらは新しく取り付けたものである。ヌーボー横丁とでも呼びたいこの区画も、いずれ取り壊しになるのだろうか気がかりである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年4月30日 (水)

租界時代の電柱

久しぶりに人民路を歩いてみると、かなり家屋の取り壊しが進んでいてSWWのマンホールがあった場所もご覧の通り道路工事中であった。 

B02900b_2

この近くにフランス租界の三角電柱もあったはずで気になって探してみると盛沢路とのT字路に1本残っていた。以前は建物があって物干し竿の洗濯物が突き出てよく見えなかったが、こうして電柱だけになると全体がよく見える。電柱の根元は割と幅があり先端(上部)が細くなっているのがはっきりわかる。 

B02901

B02902

B02903_2

なお上海のフランス租界のコンクリート製三角タイプと共同租界の木製角型タイプの電柱については、以前に掲げた藤原恵洋氏の著書の中で、租界の境界だった延安路の両脇で電柱のタイプが異なることが記されている。私の場合、電柱の形が租界の違いを象徴するものと受け止めて、租界によって電柱タイプが二分されると長らく誤解していた。

そもそも共同租界に設立された電力会社はフランス租界にも電力を供給しており、初期にフランス租界内に整備した電柱もフランス租界独自のものではない。またフランス租界に電力会社が出来てからも租界が拡張するにつれ電力需要が高まるが、十分な電力が確保できず共同租界側から供給を受けていた。電力事業は公営のみならず私企業も参入していたし電柱以外にも埋設ケーブルもあり、上水道より複雑な経緯をたどって電力網が整備されていった。共同租界で多く見られる木製電柱もフランス租界にもある。ただし三角電柱は共同租界側では見かけたことがないので、フランス租界ならではのものと言えるかもしれない。

絶滅の危機を感じる人民路の三角電柱であるが、他の場所にないか探してみると結構残っていた。復興中路沿いに瑞金二路交差点から西へ茂名南路交差点を超えて陝西南路交差点までの間を歩くと探さなくとも目に入る。ただし人民路のものより短い(背が低い)ようだ。

B02906

これから先も残るのかと思いきや、よく見ると筋金入りの割に脆弱で所々コンクリートが剥離していて使い物になりそうではない。

B02907

陝西南路の交差点近くガソリンスタンドの向かい(陝西南路)には角型電柱もある。

B02905

租界ではなく上海縣城内(長生街)にも角型電柱がある。もはや電柱としては使われておらず無用の長物となり布団を干すのにも邪魔になるので途中から切断されている。

B02904

B02904b

電柱の形以外にも注目してみよう。

虹口区の四川北路は共同租界から外に延びる越界路と呼ばれる特殊な道路だった。四川北路は中国の一般地区(租界外)から租界へとつながる道路だったので人の往来が激しく、道路が混雑したり、租界外側の道路は路面状態が悪く、天気が悪い日はぬかるんで最悪だったようだ。租界当局が道路整備の必要性を説くにも関わらず中国側が一向に対応しないため、租界当局が道路舗装、警察配置せざるを得ず、こうして形成されたのが越界路である、というのが租界側の弁である。道路とはいえ実質租界が外に触手のように延び出たような地域である。

さて、この四川北路の電柱には特徴があった。材質は木製角型であるがそれはさて置き、それ以上に越界路ならではの重要な意味があった。越界路であることを示すため沿道の電柱は赤いペンキで塗られていたそうである。単なる電線の支柱ではなく租界当局の権力が及んでいることを明確に示す目印の役割もあった。詳しく調べていないので分布範囲など具体的なことは定かでないが、06年夏頃まで残っていた電柱の写真を見直すと、確かに赤い。

これは魯迅公園近く、かつて内山書店だったという銀行の前にあった電柱である。よく見ると赤く塗られていた痕跡がある。

B2603

B2604

四川北路を南に下るともう一本あったが、これも同じ色だった。

しかし越界路の電柱に限って赤色だったというわけではない。共同租界、フランス租界にも赤電柱はある。木製角型電柱の多くは茶色(防腐剤のクレオソート油の色だろう)であるが、越界路以外でもわざわざ赤い色にするのにはどんな理由があったのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月21日 (月)

上海 租界の消火栓図録

SWW(Shanghai Waterworks Co.,Ltd.)の水の用途は飲料水だけではない。フランス租界の火災が水道整備を推し進める一因だったことからもわかるように、消防用水にも使用されていた。今でも上海の路地の傍らに租界時代に設置された焦茶色の鉄の消火栓を見かけるが、ほとんどのものは破損していて原型をとどめていない。壊れた消火栓もそれなりに古びた味わいを出しているが、やはりオリジナルに近いものが見たかった。良好な状態の消火栓が残っているのか極めて望み薄だったが、犬も歩けば棒に当たるもので結果としては予想を覆す収穫があった(といっても簡単に見つかったわけではない)。よくぞ今まで残っていたものだと思うが、確認時期はそれぞれ異なり数年の幅があるので現在はすでに無くなったものもある。

郵便ポストのような形をしたSWWの消火栓である。1924など年号入りのものもある。

B2001_2

SFB(Shanghai Fire Brigade)の消火栓。最近になって赤く塗られたようであるが、この姿を目の当たりにすると今も現役かと思ってしまう。本体には S.F.B. PUMPING CONNECTION No. と鋳刻されてされている。

B2002

これはフランス租界にあるCMF(公董局)の消火栓。CMF PUMPING CONNECTION の文字がある。

B2003

SFBの消火栓と似ている。消防組織は共同租界とフランス租界で別々であったが、必要な場合は相互に消火支援体制をとっていたので規格は同じはずだが、ホースの接続部分が違うような・・・。 肝心のサイズは測り忘れた。

次は火を消す役割を担いながらZIPPOライターを彷彿させるタイプ。半分埋没したものをよく見かける。上海は地盤沈下が著しい。外灘の建築物を見ると入口から中に階段を降りるようになるほど沈んでいて、ひどいものは建物が傾斜しているらしい。埋没するのも地盤沈下の影響か?

B2004

上とよく似たものにこんなのがあった。白ペンキで「消防・・・」の文字がうっすら残っているが最近のものだろう。最初同じタイプかと思っていたが、頂上部のカーブと胴体の凹みの幅が異なる。

B2005

SFBとCMFの消火栓の上方の丸い部分は、もともと蓋でも付いていたのだろうか?では蓋があったとして何の役に立つのだろうか?相変わらずつまらない疑問がわいてくる。真相は分からないが、もしかして次の消火栓と同じものが付いていたのかもしれない。

B2006

これまでのものと違い板金で作った箱みたいで蹴ると凹んでしまいそうであるが、リベットが打ってあり職人の手仕事によって作られたものである。丸い部分は所在地が鋳刻(陽刻)されたプレートがネジで取り付けられている。地番は「LANE」で示してあり、上海で一般に使われている「弄」の語源である。

これと同系統のものもある。壁に埋め込まれているので目につきにくい。

B2007

時間のある方はプレートの地番を手がかりにお探しください。(おことわり:プレートには租界時代の地番が示してある。地番入り消火栓の1つ目は現在もあるか未確認だが、2つ目は現存している。)

この壁に嵌め込まれた消火栓を発見したことで新たな道が開けた。消火栓は突出するとは限らず平面の中に隠されていてもよいのだ。この種のくだらない発想は往々にして空回りするが、時として新たな発見を導くこともある。

これはSWWのマンホールではない。路面に埋められた消火栓の蓋である。

B2008_2

さらに、壁に設置されたホースの接続口もある。プレートの文字はS.F.B. PUMP CONNECTION。

B2009

これは蛇足になりそうであるが、壁に取り付けられた蓋の内側に消火栓があるかもしれないということで挙げておく。消火栓なら分かりやすく表示するはずにもかかわらず、SMCとしか表示がないので別なものがあるのかもしれない。工部局の蓋物としては他では見ないタイプである。旧上海レースクラブの建物にある。

B20smc

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年4月17日 (木)

租界の上水道 SWWのマンホール蓋

前回は共同租界にあるCMF枠を取り上げたので、今回はマンホール第2弾共同租界からフランス租界へ続く上水道について紹介する。

 

共同租界の水道事業はSWW(Shanghai Waterworks Co., Ltd.)が行っていた。

SWWは工部局の承認を経て共同租界内での給水業務の権利を獲得したイギリスに登記された会社である。租界の水需要増加にともない元々工部局独自で給水場を建設しようという動きがあったのだがなかなか話がまとまらず、そうこうするうち1879年にフランス租界内で大火事が発生、消火活動の給水に問題があって甚大な被害をもたらした。これにより消防の面からも早急に対応しなければならない危機感が高まり、ようやく工部局が民間企業に許可を与えるという形でSWWが水道事業を獲得し1883年に楊樹浦給水場が竣工、送水開始となった。

  

Sww00

黄浦江からみたゴシック様式の楊浦浦給水場

   

給水場の建設のほか送水管が敷設されたが工事時期によって9ラインに分類できる。概略は次のとおりである。

第1ライン:口径500mm。鋳鉄管。全長4530m。1883年敷設。

第2ライン:口径275mm。鋳鉄管。1895年敷設。

第3ライン:口径500mm。鋳鉄管。全長4490m。1898年敷設。

第4ライン:口径625mm。鋳鉄管。全長1680m。1907年敷設。

第5ライン:口径750mm。鋳鉄管。全長425m。1915年敷設。

第6ライン:口径500mm。鋼管。全長1280m。1922年敷設。

第7ライン:口径1000mm/750mm。鋼管。全長5270m。1922年敷設。

第8ライン:口径1000mm/950mm/900mm。鋼管。全長4180m。1932年敷設。

第9ライン:口径500mm。鋼管。全長2070m。1936年敷設。

  

SWWのマンホール蓋には地下敷設物の情報が示してある。東大名路と閔行路の交差点付近にあったこのマンホール蓋はその典型である。

    

Sww01

            

蓋に情報がある以外に構造的にも蓋と枠が蝶番でつながっている点でこれまでのSMCCFSのものとは異なる。表示のサイズ40"(1000mm)からすると第7または第8ラインであるが、場所を考慮すると武昌路から大名路を通るという第8ラインのようだ。ただし蓋にはバイパス線とあり年代も比較的新しいので、第8ラインから分岐する線ということかもしれない。

   

この場所から西に北蘇州路は上海大厦の前に来るとこんな蓋がある。

         

Sww03

       

ところどころ摩耗しているが先ほど蓋を手本にすると、サイズは16MAINと判読できる。16インチ(40cm)は第1~8ラインのいずれでもない。蓋には1930とあり1934年竣工の上海大厦(ブロードウェイマンション)よりも古いもののようだ。

   

さらに蘇州北路を西へ歩き乍浦橋の手前にはこれがある。サイズの部分が欠損しているが、数字の形からして20OLD MAINである。

   

Sww02_2

  

第3ラインは楊樹浦路、東大名路、黄浦路、北蘇州路から江西路に延びる線である。蓋に表示のサイズも所在位置もこれに符合するので、この下には1898年の送水管があるはずだ。この年のものをOLDというのだからNEWはこれより時代が新しいということか。

       

次は場所を移して人民路である。歩いて行ったのではなくタクシーに乗って降りたところにこれがあった。河南南路を南下して人民路を右折してすぐのところである。

  

Sww04

       

この蓋を初めて見たならば見過ごしていたに違いない。摩耗が著しいがこれまでの蓋と比較しながら解読すると、サイズは20NEW MAIN である。この場所はフランス租界であり上3つ蓋は共同租界である。

  

調べてみるとSWWは共同租界内のみならずフランス租界へも水を供給している。1880年にフランス租界公董局はSWWと給水契約を結び、楊樹浦給水場の完成に先立つ1882年にはSWWによるフランス租界内の送水管の敷設工事が完了している。公董局は1898年にフランス租界の給水場建設を開始し1902年に董家渡給水場が落成するが、それまでの間はSWWから水の供給を受けていた。董家渡給水場が稼働するとSWWからの給水は打ち切りとなったが、それまで使用していたSWW敷設の送水管は公董局が買い上げ、引き続き董家渡給水場からの送水に使用された。つまりこの下の送水管は時代によって楊樹浦給水場と董家渡給水場の水が通ったものではないだろうか。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧